キリスト教の背景Ⅱ~そしてキリスト教へ

















 カール・ハインリッヒ・ブロッホ「山上の垂訓」
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歴史に翻弄されながらも、ユダヤ人たちが信仰のアイデンティティを失わずに来られた理由の一つは自分たちが特別に神様と契約を交わした「選ばれた民」であるという誇りでした。自分たちには本物の神様がついている、異教の神を拝む輩なぞ神様が滅ぼして我々を救い出してくださる!それを信じ、身を整えて待ち続けていようではないか。
 
 旧約聖書にはメシア(Messiah:救い主)が現れる約束の言葉が数か所に存在します。例えば、

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
(イザヤ書11:1~2)

 
 エッサイというのは、イスラエル王国2代目王ダビデの父親の名前です。ダビデの血統から特別な力を持った人物が誕生する、という預言です。事実、イエス・キリストはダビデの直系の子孫として誕生します。イスラエル王国は後に新バビロニア帝国に滅ぼされました。それまで続いてきた王国が倒れるのを大木が伐採されたイメージで表現しています。ダビデ王から後、大きく育った部分は切られてしまい、最早切り株しか残っていない…しかし、そこから新しい芽が萌え出ているではないか。この新芽こそ救い主、神の力に満ちた方が生まれて我々を救い出してくれる日がいつか来るのだ!
 
 この救い主が生まれるという約束を固く信じてユダヤ人たちは何百年もの間待ち続けます。やがて時が満ち、ついに待ちに待った救い主が誕生しました。それがイエス・キリストです。
 
 よって、ユダヤ教はこれ以後キリスト教に…なってゆく筈だったのですが…。
 
 救い主を待つ間、ユダヤ人たちは必死に身を整え、選ばれた民である誇りを守り続けてきました。特に大切にしたのが神様との契約の掟「律法」です。律法を守れ、守らない奴は救われないぞ、異教の神を信じる奴らみたいになるな、我らは神様に選ばれた民である。
 
 時間の経過と共に「選民意識」や「律法(遵守)主義」が少々極端に膨らんでしまいました。当人たちは真面目で必死です。しかし、人間自分の姿ばかりを見ていると大切なものを見落としてしまいます。
 
 イエス様はそこを鋭く見抜いておられました。

「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。(マタイによる福音書235
 
形ばかり整え、偉ぶっている宗教指導者たちを遠慮なく批判します。そもそも律法を守るのは神様への信仰の現れでなくてはならない筈、神様への愛を感じさせない信仰姿勢など偽善以外の何物でもない。
 
 そしてイエス様ご自身は「律法違反」とも言えるほどの大胆な行動をされます。例えば、働いてはいけないとされる安息日に、病気の人を癒す奇跡を行われます。神様の定められた安息の日にこそ、神様の愛が伝わる行いをする方がもっと大切なのだ、というイエス様の教え、全くその通りです。

 穢れるので触れるべからず、と嫌われていた皮膚病患者や遺体にもイエス様は躊躇なく手を伸ばされ、触れて癒され、時に生き返らせます。そんな風だから、どこへ行ってもイエス様は人気者です。あっという間にスーパーヒーローに祭り上げられました。さすがは神の子、救い主、この人こそ我々を圧迫する憎き異教徒、ローマ人たちをやっつけてくれるに違いない!

 
 気に入らない…思っていたのと違う…あれが救い主のはずがない…。一般民衆とは反対に、宗教指導者たちはイエス様を嫌います。憎しみが高じて、イエス様を逮捕、死刑に処するよう画策しました。(このあたりの詳細は「ローマ総督ポンテオ・ピラト」の項をご参照ください。)かくしてイエス様は十字架に掛けられます。ユダヤ人たちは何と、それとわからず待望していた救い主を死に至らしめてしまったのです。そして、救い主はまだ来ていない、と今でも待ち続けているのがユダヤ教です。
 
 十字架で死なれたイエス様は、三日目に復活されました。よみがえられたイエス様と再会した弟子たちは、イエス様こそ本当の救い主である、と言い広め始めます。これがキリスト教です。(ちなみに「キリスト」とはギリシャ語で救い主の意味です。「メシア」はヘブライ語。)
 
 ユダヤ人たちにとっては危険思想再び、です。あんなラディカルな男が、死んだのに生き返って、しかも救い主だとは何事だ、と阻止しようと手を尽くしますが、キリスト教は野火のように広がります。現在はそこまで激しく対立してはいませんが、当初は命の危険もあるほど迫害は厳しいものでした。
 
 イエス様の誕生後の出来事が記されているのが「新約聖書」です。イエス様を救い主と認めていないユダヤ教では読まれません。「約」は契約を意味しますので、新約聖書は「新しい契約の書」という意味になります。イエス様が登場されたことで、神様との契約が新しく刷新されたのです。
 
 古い契約(旧約聖書)では、神様と契約を交わしたのはイスラエル民族(=ユダヤ人)でした。契約の要が「律法」です。これを守ることで民は神様への信仰と愛を示し、神様は民を守る契約です。
 
 613もある律法はかなり細かく、厳しく、完璧に守るのは不可能と言えます。しかし完璧に守らないと神様との契約は守ったことになりません。そんな殺生な。神様はそんな無茶ぶりを民に強いておられるのでしょうか…。実は律法の目的は「それを完璧に守り切れない人間の不完全さを認める」ことにあるのです。人間は神様のように完全な存在ではありません。対等に渡り合うことなど出来ないのです。神様からの救いを自力で受け取れない以上、誰かに助けていただかなくてはなりません。
 
 私の力では無理です、と神の子であるイエス様に助けていただいて神様に近づくのがキリスト教のツボです。イエス様が形ばかりの律法遵守を批判し、違反ともとれるラディカルな言動を取られていたのは、今や本当に頼るべきは律法ではなく、ご自身であることを伝えておられたと言ってもいいでしょう。
 
 そして、イエス様はこの契約をイスラエル民族に限定されていたのを「全ての民」との契約としてくださいました。旧約聖書でのイスラエル民族との契約は、全ての民族との契約のいわば「予行」です。特定の民族に限らず、また時代に限らず、世界中の人が救われて神の愛を受けることが出来るようになると契約が刷新され、完成形となったのがキリスト教なのです。