ローマ総督ポンテオ・ピラト

 










ムンカーチ・ミハーイ「ピラトの前のキリスト」
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「目の上のたんこぶ」目障りで邪魔な存在を指す言葉ですが、ユダヤ人の宗教指導者たちにとって、イエス・キリストはまさにそのような存在でした。
 
 一口に宗教指導者といっても職業的専門や立場、派閥があります。派閥同士で反目し合うこともあるのですが、「共通の敵」が現れると急に仲間になったりする訳で…。彼らにとって、共通の敵は「ナザレのイエス」なる男でした。何にもないド田舎ナザレ出身の大工、そのくせ「先生」なんて呼ばれて、否定もせず聖書の話をしている。自分たちの代々守って来た教えや伝統をぶち壊すような言動を繰り返す。腹立つからちょっと追い込んでやろうと難問を吹っかけてもサラリとやり返してくるし。おまけに超人気者。行く先々で人だかり。弱きを助け、強きをくじく正義の味方ぶりやがる!
 
 何より腹立たしいのは自分を「神の子」と言っていること。冒涜ではないか!!!
 
 いや、事実神の子だし、だから聖書や神様のことに通じてて当然だし、もちろん弱い立場の人を守る側だろうし、教えや伝統を形だけ守って満足することはよろしくないと警告を発しているだけだし…。

と、現代の私たちは言うことが出来ますが、当時の彼らには理解出来ません。かばう訳ではないですが、身分も低く、学も無さそうな男がいきなり現れてラディカルな言動を繰り広げている、と見てイエス様を危険分子扱いする心情はわからなくもないことです。
 
 だからと言って、逆恨みはNGです。しかし彼らのイエス様を疎ましく思う気持ちは強まり、いよいよ殺意までに膨らみました。神様を冒涜する男なんぞ、死刑にしてしまえ。策を弄してイエス様を逮捕します。ここで裏切るのが12弟子の一人、イスカリオテのユダ。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」では裏切りの報酬としてお金の入った袋を持った男として描かれています。(ただし、聖書の記述によれば最後の晩餐の時点で彼は報酬をまだ得ていません。会計係として描かれたという説も。)
 
 言質を取って冒涜罪に仕立て、死刑に処する計画です。ただし、正式に死刑判決を下し、執行出来るのはローマ政府です。属国ユダヤにはその権限がありません。と言うことで最終的にローマ総督、ポンテオ・ピラトのもとへ連れて来ました。ユダヤ人同士の宗教トラブル、ピラトにしてみれば面倒臭い案件です。一度は他へ回しますが、結局また戻されて来ました。ピラトはこれが茶番劇であることを感づいています。このイエスなる人物には何の罪も見いだせないし、釈放してもいいのではないか。しかし何が何でもイエス様を死刑にして欲しいユダヤ人の宗教指導者たちの執念深いことはこの上なく、ああだこうだと訴えを並べ立てます。
 
 ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という問いに「それはあなたが言っていることです。」とだけ答えて後は何も言わないイエス様の態度を、ピラトは不思議に思います。
 
イエス様は確かに王様ですが、しかし単なる国王ではなく、神の子としてこの世界とは違う国(神の国とか天国と表現される)の王様です。それだけを答えて後は沈黙…一体どういうつもりなのか?
 
 ちょうど祭りの時期でした。ユダヤ人にとって大切な「過越の祭り」です。

 紀元前16世紀(13世紀とも)頃、ユダヤ人たちはエジプトの奴隷として過酷な労働を強いられていました。このエジプトから脱出し、(「モーセの海割り」は有名ですね。)奴隷状態から解放されたことを記念するのが過越の祭りです。
 
 神様の助けと救いを記念する、ユダヤ人にとっては最も大切な祭りです。祭りと言ってもにぎやかなものではなく、その出来事を記された聖書を読み、感謝の食事をします。「最後の晩餐」の食事もそれです。種を入れない(発酵させない)パンと苦い菜っぱ、羊か山羊の肉、等々メニューは決まっています。
 
 この大切なお祭りに恩赦の習慣がありました。ピラトはイエス様を釈放したいと思っていたようですが、そうはさせるか、ユダヤ宗教指導者たちはこぞって、もう一人投獄されていたバラバという名の囚人を釈放し、イエス様を十字架刑に処するよう、人々を扇動して皆で要求し始めます。

 集団意識とは恐ろしいもの、ほんの数日前までイエス様ファンで追っかけだった人々は、煽られて一気に「十字架につけろ」コールをする大群衆と化してしまいました。
 
 この騒ぎが上に知られることを恐れて、政治的立場を守りたいピラトは無罪と知りつつイエス様を引き渡します。私は責任取らないからな。お前たちの問題だぞ。知―らないっと。
 こうしてイエス様は十字架刑に処せられることになりました。
 
 このエピソードに出て来る人々は、何と愚かしい、と言いたくなる人物ぞろいです。嫉妬に狂ったユダヤ人宗教指導者たち、裏切り者の弟子、関わり合いを恐れて逃げた弟子、日和見的でその場の雰囲気に流された群衆たち、そして我が身可愛さに無実のイエス様を死刑に処したポンテオ・ピラト。
 
 しかし、彼らの姿は他人事ではない、と聖書は読む者に迫ります。実は誰もが持っている弱さ愚かさ、罪深い姿がここには如実に書き表されているのです。

人間とは何と罪深い者なのか。
しかしその罪を代わりに背負う方がここにいる、それが救い主イエス・キリスト。
十字架にかかるために、無実であるのに一切何も語らず、抵抗せず、死刑判決を受けられたお方。

これが聖書のメッセージです。
 
 ちなみにクリスチャンたちが信仰を告白する「使徒信条」という文言の中には「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一文があります。逃げ切れなかったね。今だに責任取らされてます。