過越祭はユダヤ教において大切な三大祭りの一つです。毎年3月から4月の間に行われます。
起源はB.C.16世紀(13世紀とも)頃にさかのぼります。この頃、ユダヤ人(イスラエル人)たちはエジプトで奴隷状態に置かれておりました。移住直後は両民族の関係は良好でした。しかしユダヤ人が膨大な人数に増えたことや彼らが頑健な民であったことからエジプト人はユダヤ人を恐れるようになり、奴隷として厳しく扱うようになります。加えて男の子は生まれ次第ナイル川に放り込め、という恐ろしい命令まで下してユダヤ人を迫害しました。この頃に生まれたのがモーセ(Moses)です。
モーセは生後3か月まで匿われて成長しますが、隠しきれなくなったために防水した籠に入れられてナイル川に流されます。うまいことにエジプト王女に拾われ、更にモーセの姉の機転によって実の母を乳母とし、エジプト王女の子として育ちます。聖書にはこれ以上のことは書かれておりませんが、自分がユダヤ人であること、しかし数奇な展開でエジプト王室に育ったことは理解していると思われます。
やがて、ユダヤ人とエジプト人の間に立つ者としてモーセは神様から直接呼びかけられます。
「イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3章10節)
イヤです。無理無理無理!!抵抗するモーセを容赦なく神様は押し出します。口下手でよう話せません、という彼のために、弁の立つ実の兄アロンを付き添わせてエジプト王ファラオの下へ遣わしました。
ファラオは当然相手にしません。エジプトにとって貴重な労力であり、かつ敵に回すには危険すぎる民をどうして野放しに出来ようか。かえって彼らにより厳しい労働を課す始末です。しかし苦しみながらも割り当てられた過酷な労働を何とかこなせるユダヤ人、ホント凄すぎます。
「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。」(出エジプト記12章12節)
そして、ユダヤ人たちには、小羊を屠り、その血をそれぞれの家の入口の柱と鴨居に塗っておくように命じられました。さらに旅支度をしてからその小羊を夕食に供するよう命じられます。
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」
(出エジプト記12章13節)
神様自らがエジプトの国を巡り、初子に手を下されるというのです。その言葉通り、その夜、エジプト中の初子たち、ファラオの初子から牢につながれている捕虜の初子、家畜の初子に至るまでが神様の手にかかり命を落としました。しかし入口に小羊の血が塗られたユダヤ人の家にはその災難は起こりませんでした。神様がその家を過ぎ越されたのです。
ようやく、ファラオはユダヤ人たちを出立させることとしました。これ以上彼らをここにいさせたらエジプトは全滅してしまう、さっさと出て行ってくれ!恐怖心も手伝ってエジプト人たちはこぞって彼らに金銀財宝や衣服を与えて送り出します。
(出エジプト記12章13節)
神様自らがエジプトの国を巡り、初子に手を下されるというのです。その言葉通り、その夜、エジプト中の初子たち、ファラオの初子から牢につながれている捕虜の初子、家畜の初子に至るまでが神様の手にかかり命を落としました。しかし入口に小羊の血が塗られたユダヤ人の家にはその災難は起こりませんでした。神様がその家を過ぎ越されたのです。
彼らはそのまま出発しました。とりあえずの食料はこねただけで発酵させる暇もなかったパンの練り粉をこね鉢ごと担いでいくことに。大急ぎで旅立ちます。
これが過越祭の由来です。
「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」(出エジプト記12章26~27節)
と、神様は今後この出来事を思い出すために毎年、過越祭を行って祝うように命じられました。
「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」(出エジプト記14章16節)
その通り、ユダヤ人たちは無事に海を渡り、追いかけて来たファラオとエジプト軍たちは再び閉じた海に飲み込まれてしまいました。かくして彼らは自分たちのルーツであり、神様が与えてくださると約束された地を目指して旅を始めることになります。