Public domain via Wikimediacommons
イエス・キリストは十字架の上で息を引き取られました。午後三時頃のことであったと聖書には記されています。
イエス・キリストは十字架の上で息を引き取られました。午後三時頃のことであったと聖書には記されています。
夕方になって、総督ピラトのもとにイエス様のご遺体を引き取りたいと願い出る人物が現れました。アリマタヤ出身のヨセフという人で、イエス様に敵対するユダヤ人議員の一人です。しかし彼はイエスさまの教えを信奉し弟子となっていたのです。イエス様を死刑にすることにも反対していましたが、議員仲間を恐れて弟子であることは隠していたようです。それでも最後の時に(やはり隠れてかも知れませんが)イエス様を葬ることを名乗り出ました。同じく葬りに加わったのがこれもユダヤ人議員でありながらイエス様の教えに惹かれていたニコデモです。
日が沈むと日付が変わり「安息日」が始まります。ユダヤ人にとっては大切な日です。あまりゆっくりしていられず、取りあえずの葬りとして、ご遺体に香料を添えて布でくるみ、近くにある新しい墓におさめました。当時の墓は横穴を掘ったもので大きなものです。入り口は大きな石で塞ぎます。仮の葬りであり、安息日が明けてからきちんとするつもりでした。
遠巻きに女性の弟子たちがそれを見ていました。ところで12弟子たちはどうしていたのでしょうか。聖書の葬りの場面では彼らは登場しません。大勢いる弟子の中で、もっとも近くにいた12人がここにいないのです。一人は裏切り、一人は「イエスなどと言う人物を私は知らない」とまで言ってしまいました。十字架刑の際にそこにいたと聖書に書かれているのはヨハネと推測される(これも名前が明記されていません)一人だけです。多くは関わり合いを恐れて身を潜めてしまっていた可能性が高いのです。
安息日は何もしてはいけない掟です。皆まんじりともせず沈黙の一日を過ごしました。
安息日が明けて日曜日の朝、さっそく女性陣が墓に向かいました。急いでせざるを得なかった葬りをきちんとやり直そうと、香料を用意しています。しかし墓の入り口は巨大な石で塞がれていて、自分たちではどうにも動かせそうにないあの大物をどうしたらよいかが気掛かりです。
心配ご無用、石はちゃんとどかされて墓の入り口は開いていました。
…って何でー??どういうことー???
慌てて中を見ると、あるはずのイエス様のご遺体がありません。代わりに、
遠巻きに女性の弟子たちがそれを見ていました。ところで12弟子たちはどうしていたのでしょうか。聖書の葬りの場面では彼らは登場しません。大勢いる弟子の中で、もっとも近くにいた12人がここにいないのです。一人は裏切り、一人は「イエスなどと言う人物を私は知らない」とまで言ってしまいました。十字架刑の際にそこにいたと聖書に書かれているのはヨハネと推測される(これも名前が明記されていません)一人だけです。多くは関わり合いを恐れて身を潜めてしまっていた可能性が高いのです。
安息日は何もしてはいけない掟です。皆まんじりともせず沈黙の一日を過ごしました。
安息日が明けて日曜日の朝、さっそく女性陣が墓に向かいました。急いでせざるを得なかった葬りをきちんとやり直そうと、香料を用意しています。しかし墓の入り口は巨大な石で塞がれていて、自分たちではどうにも動かせそうにないあの大物をどうしたらよいかが気掛かりです。
心配ご無用、石はちゃんとどかされて墓の入り口は開いていました。
…って何でー??どういうことー???
慌てて中を見ると、あるはずのイエス様のご遺体がありません。代わりに、
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
(ルカによる福音書24章5~7節)
(ルカによる福音書24章5~7節)
天使がそこにいて、イエス様は復活なさった、もはや墓には用はないと彼女たちに告げます。
この時大地震が起こった、とも書かれています。天使の登場シーンっていつも結構迫力があります。しばしば「恐れるな」と最初に語り掛けてきますが、いやいや恐いですって。神様と人間との間に立つ存在ゆえになかなかの威圧感と存在感。キューピーちゃんのように可愛らしい訳ではないのですね。
この時大地震が起こった、とも書かれています。天使の登場シーンっていつも結構迫力があります。しばしば「恐れるな」と最初に語り掛けてきますが、いやいや恐いですって。神様と人間との間に立つ存在ゆえになかなかの威圧感と存在感。キューピーちゃんのように可愛らしい訳ではないのですね。
イエス様がよみがえられたこと、生きておられることを弟子たちも伝えよ、という天使の命に従って女性たちは急いで墓から出て、弟子たちのもとに向かいます。
復活の出来事は、福音書によって登場した天使の人数、地震の有無、見張りとしてローマ兵がいたりいなかったりと、少しずつ詳細が異なっています。実際どうだったのかは今や知る由もありませんが、聖書は事実の正確さではなく、この出来事がどのような意味を持つのかということに重点を置いて記しているので書き手によって齟齬が生じます。あまり違いには突っ込まずに、イエス様が復活されたという部分に焦点を当てて読み進めていくことをお勧めします。
女性の弟子の一人、マグダラのマリアはよみがえられたイエス様に最初に出会った人物として記されています。復活の日の朝にイエス様のご遺体に香料を塗りに向かったのが彼女です。一人だったとか数人で連れ立ったとかこれまた詳細は定かではありませんが「ヨハネによる福音書」では彼女は一人墓へ行き、空っぽの墓の前で泣いていると後ろにイエス様が立たれていたという話になっています。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20章13~16節)
イエス様と園丁を間違えるなんて…と思わなくもないですが、最初イエス様とわからなかったのはマリアだけではありません。死者がよみがえる、なんて信じられない人々は、たとえ事実が目の前につきつけられても信じられないということです。弟子の中には幽霊が出た!と言う者もいたくらいですから。
イエス様と園丁を間違えるなんて…と思わなくもないですが、最初イエス様とわからなかったのはマリアだけではありません。死者がよみがえる、なんて信じられない人々は、たとえ事実が目の前につきつけられても信じられないということです。弟子の中には幽霊が出た!と言う者もいたくらいですから。
マリアは名を呼ばれてイエス様であるとわかりました。この三日間で彼女の心はどん底まで落ち込みました。そして三日目に一気に引き上げられたのです。後によみがえられたイエス様と再会した弟子たち(裏切ってしまったイスカリオテのユダを除く)も同じです。彼らの心を占めていた、逃げ出してしまった罪悪感や喪失の悲しみをイエス様は一気に吹き消してくださったのです。
イエス様はご自分が復活されたことを皆に伝えるようにと、マリアをはじめとして出会った人々に命じられます。「キリストはよみがえられた」はキリスト教の最も大事な宣言の一つです。
人がどうしても避け得ない最大の問題、それが「死」です。よみがえられたイエス・キリストは「死に勝利された方」となりました。死に勝たれたということは全てに勝てる方であるということです。そのような勝利の方が私たちの救い主である、とキリスト教会は信じてイエス様により頼んでいるのです。
教会は毎週日曜日に礼拝をささげております。もともと礼拝をささげるべき日は「安息日」の土曜日でした。日曜日に移行したのは、復活がキリスト教の根幹であり、日曜日に復活されたイエス様をほめたたえるためです。週末である日曜日がカレンダーの先頭に来ているのも、キリスト教文化の影響です。
イエス様はご自分が復活されたことを皆に伝えるようにと、マリアをはじめとして出会った人々に命じられます。「キリストはよみがえられた」はキリスト教の最も大事な宣言の一つです。
人がどうしても避け得ない最大の問題、それが「死」です。よみがえられたイエス・キリストは「死に勝利された方」となりました。死に勝たれたということは全てに勝てる方であるということです。そのような勝利の方が私たちの救い主である、とキリスト教会は信じてイエス様により頼んでいるのです。
教会は毎週日曜日に礼拝をささげております。もともと礼拝をささげるべき日は「安息日」の土曜日でした。日曜日に移行したのは、復活がキリスト教の根幹であり、日曜日に復活されたイエス様をほめたたえるためです。週末である日曜日がカレンダーの先頭に来ているのも、キリスト教文化の影響です。