洗礼~新しく生まれる


















ジェイコブ・ヨルダンス「ニコデモに教えるキリスト
   Public domain via Wikimedia Commons

「洗礼」という言葉はどこかで一度はお聞きになったことがあるかと思います。新しい環境で初めての経験をした時など「職場で新人としての洗礼を受ける」なんて表現されることもあります。これはいわゆる派生語であり、もともとはキリスト教の用語です。キリスト教の信仰を持ち、クリスチャンとして生きることを決めた人が受けるもので、その入信の儀式を「洗礼式」と呼びます。
 
 漢字からして、どこかを洗うイメージがあるかもしれません。手??足…は世界の話か。結論から言うと、全身を水に浸すのが本来のやり方です。洗礼を意味する英語「baptism」は「浸す」という意味のギリシャ語「βαπτίζω(バプティゾー)」の派生ですので、洗うというのとは少し違います。
 しかし、なぜ信仰を持つためにわざわざ水に浸かる必要があるのでしょうか。
 
 古代、ユダヤ人は礼拝など神様の前に出る時には水で体を清めるという約束がありました。日本でも神社などでは入る前に手を洗うようになっている所もありますね。衛生というよりは、きちんと清々しい心で神様の前に出よ、という意味合いでしょう。
 
 イエス様の存在が世間に知られるようになる少し前から、「救い主が来る、身を清めて備えよ」という教えが世をにぎわすようになりました。ヨハネというイエス様の親戚にあたる人物が始めたものです。彼はイエス様が登場することを前もって宣伝する役目を持って生まれた人物でした。準備のために川で身を清める洗礼を多くの人に施し、ゆえに「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになります。
 
 しかし、同時に彼は自分の「水による洗礼」だけでは不十分である、とも語ります。人間とは、神様に背いた自分勝手な存在であり、その点では「霊」がすでに汚れているのだ。表に現れた汚れを水で流したところで、すぐに再び汚れは中から出て来る。根本をきよめなければならない。
 ここでいう「霊」とはいわゆる精神よりも深い、魂とでもいうべき部分です。神様が人間をお造りになった時に「霊の息」を人間に吹き込まれた、と聖書は表現しています。それゆえ人間と神様の間には深い繋がりがあるのですが、神様に背いた結果、ここの繋がりが歪んでしまっているということです。
 
 洗礼者ヨハネは自分の後に来る方「イエス・キリスト」が聖霊によって洗礼を授ける、そちらがもっと大切である、と言います。なるほどそうなのか。とは言え、いったい何のことやら。
 
 詳しく話を聞きたいと、ニコデモという人物がイエス様のもとへ訪れます。彼はユダヤ人の議員であり、かつ宗教指導者でした。神様のことには精通しているはずの自分が理解出来ないことを、このイエスなる人物は語るし、行っている。皆がそれに惹きつけられている。気に入らないとやっかんで嫌う輩も多いが、自分としては気になるし、もっと知りたくもある。ということで、立場上あまり人に見られたくなかったのか、夜にコッソリとやって来ました。
 
 そこでまた、イエス様から謎の言葉を聞かされます。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3:3

 どういうこと? もう一回、母親のお腹から産まれて来いと言うのか?無理でしょ。だいたいワシの母親はもうおらんぞ。(ニコデモは高齢者というイメージが強いのか、絵画でも大抵はご老人の姿です。)
 
 新しく生まれ変わるということは「前と違う生き方をする」ということでもあります。「もし生まれ変われるのなら…」に続く言葉は、今の自分とは違う状態を表現する言葉ではないでしょうか。
 神様に背いていた生き方から、神様に従う生き方に変わる。これがイエス様の言う「新たに生まれる」です。しかし、ハイ今日からそう致します。とだけを口で言うは易し…。
 
 イエス様はそこを鋭く突いてきます。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
(ヨハネによる福音書3:5

神を信じる者として清くなければならない、それはわかっている。だからこそ水できよめの洗礼だ。しかし、霊とはどういうことだ? 水できよめるだけでは足らないとは…? 指導者として良いお手本となるように、間違いなく正しく生きて来た、という自負があるだけにかえってニコデモにはわかり難くなってしまったのかもしれません。しかし、どんなに正しく生きてきたつもりでも、どんなに善行を積んできたとしても、根本の「神に背いている」という問題は人間誰もが抱えているのです。イエス様はその問題を解決するためにこの世に来られました。
 
 イエス様は水に浸される洗礼に、より大きな意味を与えられました。水に全身沈むということは「死」をイメージします。そして水から上がることは「生まれ変わり」のイメージがあります。
 洗礼を受ける時、この「一度死んで、新しく生まれ変わる」状態を経験します。それは、もう自分は神様に背いた自分勝手な生き方はしない、自分の霊は神様としっかり繋がったのだ、なぜならイエス様が私の神様に背いた「罪」を身代わりに背負ってくださったから、今日から私はクリスチャンとして、神様を信じ、神様のお心に適った生き方をしていきます、ということでもあるのです。
 これを洗礼者ヨハネは「聖霊による洗礼」と表現しました。聖霊とは、神様の霊のことであり、人間の心にお入りになってその心を自分勝手から神様の方へ向け変えてくださる力です。イエス様を信じることによって、一時的なきよめだけでない、根本的な霊の背きの汚れをもきよめられたのです。
 
 なお、イメージですので、絶対に水に浸からなくてはきよめられないという事ではありません。現代では全身水に浸かるスタイルだけでなく、水を頭にかける、濡らした手を頭に置くなどの簡略したスタイルでも執行されています。ただ、思い切り沈んで出て来る方が新しく生きる実感が湧くかも。
 
 そして、神様のお心に適う新しい生き方を始める時、それは人格形成へと繋がるかも知れませんし、善行となるかも知れません。色々な面で、神様の助けによって少しずつ成長していきます。
 しばしば「クリスチャンは良い人が多い」と言っていただくことがあります。おそれ多く、また光栄な言葉です。しかし当のクリスチャンたちは、自分たちが善人であるとは思っていません。謙遜ではなく、自分たちが神様に背いた存在であること、神様がいなくてはどうにもならないこと、だから神様にすがって生きるしかないと思っている人々がクリスチャンです。洗礼を受けたと言っても、自分の思惑に振り回され、自分勝手な方に傾く弱さは持ち続けます。しかし自分はもうそのような生き方はするまい、と日々神様の助けを祈り求めながら、より神様の望まれる生き方を模索し続けているのです。