律法















ホセ・デ・リベーラ「モーセ」
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  旧約聖書の最初の5巻はモーセが書いたものとされ「モーセ五書」と呼ばれます。後年の神学研究では全てが直接モーセの手によるものではないとも言われておりますが、明確な結論は出ていません。いずれにしても、これらの書にモーセが深く関わっているということは確かなので、正式な著者が誰であれこう呼ばれていることに大きな違和感はなさそうです。  

 モーセ五書に書かれているのは「ユダヤ人たちに神が与えられた掟(律法)」とそれが与えられた経緯です。内容をかなりざっくりとまとめるとこのようなことが記されています。

 ①創世記…世界のはじまり。ユダヤ人の誕生。飢饉によりユダヤ人のエジプトへの民族大移動。
 ②出エジプト記…エジプトでの厳しい奴隷生活からの脱出。神から律法が与えられる。  
 ③レビ記…律法そのものについて。具体的な細則など。
 ④民数記…エジプト脱出後、神に不従順になってしまったユダヤ人たちの放浪の旅。
 ⑤申命記…律法の再確認。歴史を知らない次世代に律法の精神を改めて教え諭す。
 
 ユダヤ人にとって、②のエジプト脱出は重要なターニングポイントです。飢饉を逃れてわすか70人でエジプトへ移住した彼らは、数世代後には非常に大きな力強い民族となります。これはエジプト人にとっては脅威です。ユダヤ人を恐れたエジプト人たちは、彼らに過剰な労働を課し、厳しい奴隷の状態におきました。神様はこの苦境からユダヤ人を逃れさせ自由の身としてくださったのです。
 
 この時にリーダーとして立てられたのがモーセです。映画や絵画などでも有名な「モーセの海割り」がこの脱出の時に起こった出来事です。紆余曲折の末、エジプトから出ることは出来たものの、捕まえて連れ戻そうとするエジプト王の軍勢に追われ、ユダヤ人たちは葦の海(紅海)の海辺まで追いつめられてしまいました。

 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。(出エジプト記14章21~22節)
※イスラエル人=ユダヤ人です。

 ユダヤ人たちが無事に海を渡り終えると海は元通りに閉じてしまい、後を追いかけて来たエジプト軍は海に飲み込まれてしまいます。ここで確実に彼らはエジプトの束縛から逃れることが出来たのです。

 この出来事がユダヤの人々にとって非常に大切なこととなりました。苦しみのどん底から助け出してくださった神様に従って生きてゆくことを改めて表明し、神様と契約を交わします。ユダヤ人が神の民として生きてゆくという契約はこれが初めてではありません。事あるごとにこの契約は繰り返されていますが、今回のエジプト脱出という大きな出来事もまた契約を再確認して交わすのに絶好の機会でした。モーセが代表してシナイ山という山の頂上で神様との契約に立ちました。ここで与えられたのが神様からの10の戒め「十戒」です。

 わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
  あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
  あなたはいかなる像も造ってはならない。
  あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  安息日を心に留め、これを聖別せよ。
  あなたの父母を敬え。
  殺してはならない。
  姦淫してはならない。
  盗んではならない。
  隣人に関して偽証してはならない。
  隣人の家を欲してはならない。
 (出エジプト記20章1~17節 抜粋)
 
 選ばれた神の民として生きていくために、これらのことを守って生きてゆくことを神様は民に命じられました。これらを実生活に適用するために細則が加えられ、また神様を礼拝するための祭儀の規定なども加えられて、実に613もの戒律が作られました。
 
 これらを暗記し、口ずさみ、きちんと守ることをユダヤ人は非常に大切にしています。それは、この教え(律法)が単なる規則ではなく、自分たちと神様を結び合わせ、ユダヤ人をユダヤ人たらしめるアイデンティティの要である故にです。律法がきちんと守られない時、神様とユダヤ人との関係は破綻し、神様から見捨てられたものとなってしまいます。それは彼らが最も恐れることです。そのためにユダヤ人たちは律法遵守に必死になり、また、日常生活に律法をどのように適用してゆくかを常に研究するようにもなりました。とりわけ厳しく律法遵守にこだわる主流グループが「ファリサイ派」と呼ばれます。
 
 しかし、残念ながら人間のすることは時の流れと共に本筋からズレがちです。本来、神様との関係をしっかりと結ぶためのものであったはずの律法が、守れるか、守れないかだけにこだわるようになり、守れれば良し、守れなければダメと二極化してしまいました。そもそも、613もある掟を全て守ることは難しく、いくら理屈を捏ねてこじつけようと「完璧に」守るというのは不可能といえます。
 
 律法にはもう一つの大きな役割がありました。それは人間の限界を知らしめること、神様との関係をきちんと構築するためには、神様から差し伸べられる救いの手なしには、どんなに人間だけが頑張っても無理であることを理解させることでした。律法をきちんと守れている自分たちは救われる、と思うのはユダヤ人たちの傲慢である、と、そのことをイエス様は厳しく指摘し批判されました。
 
 私たちだけではムリです。神様どうぞお助け下さい。救ってくださいと謙遜に求める時、律法という枠を大きく超越した救い主、神の御子イエス・キリストがいることに目が開かれ、本当に神様との関係を築くことが出来ます。それは神様の側から差し伸べてくださった救いの手があるからなのです。
 
 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
(ガラテヤの信徒への手紙3章24節)