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イエス・キリストが復活された時、弟子たちはどん底の気分から一気に天にも昇るような気持ちになったのではないでしょうか。再びイエス様と一緒にいられる、今度はもっと真面目にやろう、熱心に話を聞こう、逃げたりしないで最後までついて行こう…決意も新たに再出発です。
父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神。聖書は神様を3通りの形で表現します。このお三方は同じ方なのです。これを「三位一体」と表現します。三者は同時に存在し、しかし一人の神であるという、分かるような分からないような、これがキリスト教の神様のお姿です。
理詰めで説明する部分ではないので、ここでは神様は3つのあり方を同時にされるということに留めさせていただきます。神様ですから人間にはついて行けない側面も多くお持ちなのです…。
しかし、なぜわざわざ「聖霊」という別のあり方になる必要があるのでしょうか。イエス様が一緒にいてくだされば十分だったのでは?確かに弟子たちにとってはそれで良かったのかもしれません。しかし、イエス様は「生身の人間」の姿をとられた神様なのです。よみがえられたとは言え、人間の姿をやめられた訳ではありません。地上では分身の術を使って世界中を飛び回るという芸当も不老不死になるということも出来ないのです。(不可能とは言えないでしょうが、人間と全く同じ姿を取られているということが一番大事なので)そのため弟子たちの側にいることは出来ても、それ以外の人の側にいることは出来ません。しかし「全ての」人の救い主となられたイエス様です。特定の時代と場所にいる人々にだけ寄り添う方であることは良しとなさいません。
そこで「聖霊」の登場です。「霊」というと何となく足の無いアノ方のようなイメージがありますが、風、水、火など実体のないものに例えられることの多い「力」のような存在です。聖霊は時と場所を選ばず存在する方なので、2000年前にパレスチナ地方にいた弟子たちにも、21世紀に日本(今はベルギー)に住む私たちにも寄り添ってくださることが出来るのです。
助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
聖霊が助けてくれることによって、イエス様がこれまで弟子たちに語られてきたこと、十字架、復活、それらの出来事の本当の意味がきちんと理解できるようになる、より深くイエス様を知り、見えなくともイエス様が生きておられることを信じて生きてゆける、という約束を下さったのです。
約束通り、イエス様が天に昇られた10日目、復活から数えて50日目に聖霊が送られて来ました。ちょうど「五旬祭(ペンテコステ;50の意)」という収穫記念の祭りの時でした。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2章1~4節)
なんとも不思議な出来事で聖霊は人々の上にくだりました。それぞれ異国の言葉で何を語っていたのかと言うと「イエス・キリストの復活」であったと言われます。それまでイエス様の十字架と復活は単なる出来事として受けとめられていました。それが「自分のために」イエス様は十字架にかかって死なれ、よみがえられたのだ、と聖霊によってようやく弟子たちに理解できるようになったのです。
そして、聖霊は「力」を与える神様でもあるのです。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
(使徒言行録1章8節)
先程の不思議な出来事に、野次馬が集まってきました。あまりの不思議さに驚く人もいれば「酔っ払いの集団か?」と疑う人も。そこでまず、弟子のペトロが皆の前でイエス様の十字架と復活について語り始めます。このペトロ、イエス様が逮捕された時に関わり合いを恐れて「イエスなんて奴は知らない」と言って逃げたあのペトロです。それ以前に、イエス様がご自分の十字架について言及された時に「そんなこと言うもんじゃありません」とイエス様を止めたあのペトロでもあります。そのペトロが大勢の前で、かつて自分が否定したあれやこれやを堂々と話せるようになるのです。
(使徒言行録1章8節)
彼の話を聞いて心打たれ、その場で3000人もの人々が仲間に加わったと聖書は記録しています。
その日から人々はますます熱心に聖書を読み、祈り、礼拝をささげるようになりました。現在の教会のあり方の原点です。ここからペンテコステは「教会が誕生した日」とも言われます。
ペンテコステの日からクリスマス前のアドベントに入るまでの約半年間、教会では特にこの「聖霊」が自分たちにも送られ、クリスチャンとして生きる力を与えられていることを重んじる時として信仰生活を送ります。現代を生きるクリスチャンたちは2000年前の弟子たちのように直接イエス様と肩を並べ、顔を合わせて過ごすことは出来ません。しかし、聖霊が送られていることで、同じようにイエス様が(目には見えなくても)傍らにいてくださっているのだと信じることが出来るのです。