クリスマス・ストーリーⅣ ~東方の学者たち~

 









ジェームズ・ティソ「旅の三賢人」
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 年が明けてもクリスマスの飾りが外されていない場所があります。その一つが教会です。年末年始、忙しくて片付け忘れているとご近所さんに思われてしまった教会があるとかないとか…
 キリスト教の暦の上では、16日までがクリスマスシーズンです。この日を「公現日(Epiphany;エピファニー)」と言います。イエス様のもとへ東の国から学者たちが訪れたことを記念する日です。
 
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイによる福音書2:112
 
 学者、博士、賢者、王などと訳されますが、なかなかしっくりくる翻訳が見当たりません。星の動きを見てその年の情勢や吉兆を判断し、かつ政にそれを生かす人々です。星占いで政治…とは言っても、その当時はれっきとした天文学です。彼らはその地では優れた人物で、身分も高い人々でした。
 
 東の方、とだけ記されているので具体的な国名などはわかりませんが、遠い外国で新しい王が生まれる、という星の動きを見つけたのではるばる会いにやって来たのです。星を頼りにユダヤの地に到着し、さて、どこを探そうか、王ならやはり王宮だろう、ということでヘロデ王の所へ訪ねて行きました。
 
 このヘロデ王なる人物は、国王ではありません。当時ローマの植民地であったユダヤを治めるよう、ローマから委託されている雇われ王です。ユダヤ人でありながらローマ皇帝の手先になった、ということでユダヤ人たちから見れば裏切り者、そして自分の王位に固執しているという厄介な人物です。
 
 そんなヘロデ王にとって、わざわざ遠い国から新しい王の拝謁のために来訪者があったというのは、いい情報ではありません。ワシの時には来なかったではないか、と思ったかどうかはともかく、自分の立場を揺るがす存在が、自分でも知らないうちに現れた…言い知れぬ不安に襲われます。
 急ぎ古い書物を調べさせたところ、「王はベツレヘムに生まれる」という古来の言い伝えが見つかります。まさにその通り、ナザレの町に住んでいた若夫婦はローマ皇帝の無茶ぶりと心無い世間の噂話から身を守る算段の結果、言い伝え通りベツレヘムにまで来てイエス様を産んでいたのです。神様の導きは、いつの間にかあるべき所へあるべき事を整えていました。
 
 何食わぬ顔でヘロデは学者たちにベツレヘムへ赴き、新しく生まれた王を見つけてくるよう依頼します。「私も行って拝もう」なんていうのは真っ赤な嘘で、見つけて亡き者にしてしまおうという恐ろしい策略です。しかしそんな下心は神様にはバレバレ。学者たちはヘロデに何も知らせてはならない、とお告げを受けてきちんと別ルートで帰ります。
 
 さて、星は最後まで学者たちをリードし、イエス様のいるところで止まりました。この時まだ家畜小屋だったのか、「家」と記されているので、もう少しまともな家に移動できたのか、これも明確ではありませんが、「王」に相応しいとは言い難い建物だったことでしょう。しかし星の専門家の彼らは、この赤ちゃんこそ、星が知らせた「新しい王」であると認め、ひれ伏して拝み、宝物を贈りました。
 
 王の象徴である「黄金」…言うまでもなく、新しい王への贈り物です。
 祈りの象徴である「乳香」…神様と人間との関係を取り持つイエス様のお働きを示す贈り物です。
 死の象徴である「没薬」…人間の罪を背負い十字架で死なれるイエス様を示す贈り物です。
 
 ここで贈られたのは、単なる出産祝いではなく、イエス・キリストという方がどのような方であるのかということを明示する品々でした。そして、それらがユダヤ人ではなく、遠い国から来た外国人、しかも異教の信仰を持っていたであろう人々によってもたらされたということに込められた聖書のメッセージがあります。
 
 イエス・キリストはユダヤ人だけでなく、世界中全ての国の人々のために生まれた救い主なのです。
 
 全ての人の前に救い主としてれたと理解される出来事があったとして、この日を「公現日」と言います。(エピファニーとは「現れる」という意味のギリシャ語の派生です)
 
 ところで、一般に「三人」の学者たちと言われ、絵画などでも三人の人物が描かれることが多いのですが、お読みになった通り、彼らが三人組であったとは聖書にはありません。持ってきた贈り物が三つだったので、三人いたのではなかろうか、という想像の産物なのです。想像は想像を産み、この三人はそれぞれ黒人、白人、黄色人種、または老人、壮年、若者であったともされ、そのように描き分けられた絵画がたくさんあります。実際はどのような人々であったのかは、今や知るすべもありませんが、公現日が「全ての人のために現れたイエス・キリスト」を思う日である以上、あらゆる人々をイメージする描き分けは、聖書のメッセージを具現化した素晴らしい表現方法であると言えるでしょう。
 
 時代も国も超えてなお、今を生きている私たちのためにもイエス様は生まれてきてくださったのです。