使徒パウロ

 















ニコラ・ベルナール・レピシエ「パウロの回心」
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「使徒」というと12使徒が有名ですが、続いて有名なのがパウロです。新約聖書には「~への手紙」と題がつけられた書簡文書があります。27巻ある新約聖書の中で書簡は21通、そのうちの12通がパウロの手によるものなので、新約聖書の著者としても大きな役割を果たしている人物です。
 
 熱心なキリスト教伝道者、また聖書の教師として尊敬されるパウロですが、元々は熱心なキリスト教「反対者」。なぜなら彼は熱心なユダヤ教徒だったのです。

 パウロ、本来の呼び名は「サウロ」といいます。これはイスラエル王国初代王の名前に由来し、ユダヤ人男性の名としてはかなり好まれる名前でもあります。生まれはタルソス(トルコの一都市)で、生まれつきローマの市民権を持つと言っているので、家柄も悪くはありません。(ユダヤはローマの植民地でした。市民権を得れば選挙権などが得られ、植民地税は免除されるなど有利な立場になります)高名な学者の下でユダヤ律法を学んだ専門家であり、最高議会の議員であった可能性もあります。そんなコテコテのユダヤ教徒ですから、台頭して来た新しい教えのキリスト教は大嫌い。イエスって奴を十字架につけたと言って我々ユダヤ人を責め立てるし(怒)。
 
 ユダヤ教徒たちはキリスト教が広まらないよう、迫害し命まで取ることもありました。最初のキリスト教殉教者ステファノが殺された時、パウロ(まだサウロ)はその場で服の番をしていたと記録されています。自らは手を下さなかったものの、キリスト教徒が殺害されることには賛成しており、皆の服を預かりながら高みの見物を決め込んでいたようです。

 その後、彼はなおもキリスト教徒を迫害しようと最も身分の高いユダヤ祭司長がいるダマスコ(現在のシリア、ダマスカス)まで許可をもらいに出向きます。OKされたら片っ端からキリスト教徒を捕らえて連行しようと意気揚々。ところが…
 
 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
(使徒言行録934節)
 
 絵画にも描かれている「サウロの回心」の出来事です。なお、ここではサウロが「サウル」と呼びかけられていますが、これはユダヤ人の言語であるヘブライ語の方言「アラム語」です。かつて、この方言でいつも話をされていたのは、他ならぬこのお方でした。
 
 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(同956節)
 
 イエス・キリストご自身が天からサウロに語られたのです。しかし声はすれども姿は見えず、周りのお供達もうろたえるばかり。そしてようやく起き上がったサウロは、何と目が見えなくなっていました。人の手を借りてようやく目的地ダマスコへ到着したものの、最初の勢いはどこへやら、三日間飲み食いもせずに座っているだけでした。この辺りも聖書は詳しく語りませんが、自分の身に起こった出来事、語り掛けられたイエス・キリストの言葉などを思いめぐらしていたのではないでしょうか。

 さて、ダマスコにはアナニアというキリスト教徒がおりました。今度はこの人にイエスさまが語り掛けられます。なんと、サウロの所へ行って目が見えるようにしてやれとのこと、あなたが手を置けば見えるようになるから。イエスさまを信じるアナニアですが、こればっかりは御免被りたい、サウロとやらの悪事についてはここまで届いているんですから!と嫌がりますが、イエスさまは諭されます。
 
 「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒言行録91516節)
 
 彼は今後、私を伝える者に変わるのだ。私が「選んだ器」なのだとまで言われてしまったら、もう嫌とは言えません。アナニアは命じられた通りサウロのもとへ赴きました。
 
 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。(同91718節)
 
 「目からウロコ」はここから生まれた言葉です。突然見えなくなった目は、アナニアに手を置かれた途端に再び光を取り戻しました。この劇的な体験は、彼をすっかり変えてしまったのです。
 
 そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
(同91920節)
 
 変わりすぎやろー!とツッコミそうなほどの勢いで彼はキリスト教徒となってしまいました。180度の転換に、何か企んでいるのでは?と疑う人も当然いましたが、人望篤い仲介者にも恵まれ、キリスト教徒たちの仲間に無事加えられました。イエス・キリストに出会った者は生き方が変わる、変えられるということを見事に体現したのがこのサウロです。もちろん、彼一人の力だけではこんなに変われません。アナニアが言った通り、神の力、聖霊が彼に及んだのです。
 
 そして彼は、キリスト教伝道者として第二の人生を歩みだします。「パウロ」というのはサウロを、この時代の公用語であるギリシャ語風に発音したものです。広い世界に出て行き、多くの人に接するにあたり呼び方を変えたものと思われます。彼は主にシリアから小アジア(トルコ)、マケドニア(ギリシャ)と地中海周辺を旅しながら伝道活動を行いました。聖書には3回の伝道旅行をしたと記されています。後には行く先々で建て上げた教会に宛てて、アドバイスや聖書の教えの再確認など書いた手紙を送り、それらが聖書に残されています。
 
 やがて、ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害も始まり、今度はパウロ自身が逮捕されてローマに送られます。獄中でも彼は手紙を書き続け、伝承によれば皇帝ネロの時代に斬首刑となったと言われます。波乱万丈の生涯でしたが、今もなお、聖書の中には彼の生き様と信仰が生き生きと記されているのです。