クリスマス・ストーリーⅠ ~マリアとヨセフ~











フラ・アンジェリコ「受胎告知」
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 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。ではその出来事はどのような次第だったのでしょうか。絵画、映画、お芝居、YouTube等で色々見ることが出来ますが、実際の聖書では以下のように記されています。
 
 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカによる福音書1:2638
 
 絵画などでも有名な「受胎告知」のシーンです。絵画や映画では作り手のイマジネーションや信仰心が反映されるので、マリアや天使の姿はかなり美しく彩られています。動画では荘厳なBGMが流れたり、あるいは親しみを持たせようと可愛くアニメ化されたり、時には現代版なんて凝った演出もありますが、聖書の記述はかなりザックリしたものです。(それだけに演出のやりがいがあるのですが)
 
 「神の御子を宿した女性」ということで、ついつい美化されがちなのですが、実は聖書が強調したいのは「マリアは特別な女性ではない」ということです。ここでマリアについてわかるのは、
 ・ユダヤ人である…ダビデ家(家系)というのはユダヤ人です。そこへ嫁ぐ予定のユダヤ女性。
 ・ナザレに住んでいる…パレスチナ北部の小さな町です。「何にもない所」と認識されています。
 ・若い娘…「おとめ」はここでは「未成年」を意味します。十代、どうかするとローティーン…。
 
 そんなどこにでもいそうな田舎娘のもとに天使がやって来て「おめでとう、あなたは神の子を産みます。」って、ちょっと待ってくださいよ、頭がついて行きません。そもそも私まだ処女なんですけど。
 処女が身ごもる、有り得ない話です。しかし「神にできないことは何一つない」と聖書は強調します。聖書には「有り得ない妊娠」の話は複数あるのです。ここに一緒に書かれている、マリアの親戚エリサベトは高齢で不妊でもあったのに今や妊娠6ヶ月。生まれるのはイエス・キリストの登場を宣伝する重要人物です。古い話では、イスラエル民族の祖先を産む女性サラは90歳での出産です。これらの出来事が示したいのは「神の業は、人間の営みを超越して起こる」ということです。どうあっても不可能、文字通り「神業」で神の御子、イエス・キリストは生まれて来るのだ、しかもその神業がごくごく普通の女の子を通して現れる、という不思議な矛盾をはらんだ出来事がクリスマスの始まりです。
 
 さて、もう一人、マリアの婚約者ヨセフはどうだったのでしょうか。聖書を開くと…。
 
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイによる福音書1:1825
 
 「私、神様の子どもを宿しちゃったの。」なんて婚約者にいきなり言われたら、アタマがおかしくなったか、浮気の苦しい言い訳か、と思うのは当然です。ヨセフは当然ながらマリアの浮気を疑いました。この時代、不貞は死刑です。そこでヨセフは身を引こうと決めました。つまり、婚約は最初からなかったことにすれば、マリアは彼女の好いた男との子を堂々と産める、という潔くも悲しい決意です。漢だ。
 
 幸い、天使はヨセフのもとにも現れて、事の次第を告げます。間に合ってよかった…いや、神様のなさることに手遅れなんてないですが。
 
 世界で最初のクリスマスの出来事は、何とも波乱に富んだ幕開けです。聖書は本当に最低限のことしか記していません。しかし、いくら天使のお告げとは言え、二人がこの事実を受け入れるまでには相当の葛藤があったと想像がつきます。時間もかかったでしょう。相談出来る相手もなく、お互いを気にして、時に疑って、一人で悩みに悩み、神の御前にひざまずいて祈り、考え、ようやくそれぞれが受け止められて、共に「神の御子イエス」を産み育てる決意をしました。これから先も、決して楽な道のりではありません。一つ一つを共に乗り越えながら二人は神の御子の誕生という大仕事を進めていきます。
 
 クリスマスは、神様の不思議な力が、しかしごくごく普通の、悩みもすれば弱音も吐く人間を通して現される出来事です。それは、神様が人間の愚かさや弱さを受け止めつつ、そこから救い出そうとされているメッセージを含んでいます。現代の華やかで明るいクリスマスのお祝いの背後にある、真実のクリスマスをぜひ知っていただきたいと思います。