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イエス様はお生まれになるずっと以前から、その誕生について預言されていました。「予言」ではなく「預言」です。両者の違いは何でしょうか。
未来のことを予め言うのが「予言」です。20世紀に生まれた方なら大抵知っている「1999年に世界は滅ぶ」という予言、私たちには幸い、当人には残念ながら外れました。未来を必要以上に知ることはないということかも知れません。
神様が告げられた言葉を預かるのが「預言」です。お告げ、神託などとも言われますが、神様がこうお考えである、仰っているということを聞き取り伝える人々を「預言者」と言います。神様を信じる人々にとっては、自分の思惑よりも神様の御心をあらわす預言が優先されてしかるべき、となります。
と言いつつも、自分の気持ちを優先してしまうのが人間の弱さであり、問題です。紀元前10世紀頃、ユダヤ(イスラエル)の国は国力をつけるために多くの周辺国と同盟を結びました。しかしそれらは全て異教の国。神様を第一とすることがユダヤの力の源であったのに、それを放棄して異教の習慣を取り入れ、神様を忘れたユダヤの人々に神様からの警告が送られます。「このままではこの国は滅びてしまう!」これらを大勢の預言者たちが声を大にして叫び、神様のもとへ立ち返るよう促しますが、人々は耳を貸しません。それより経済優先、軍事力をつけてナンボ、周りと仲良くやっていくことが大切…。
と言いつつも、自分の気持ちを優先してしまうのが人間の弱さであり、問題です。紀元前10世紀頃、ユダヤ(イスラエル)の国は国力をつけるために多くの周辺国と同盟を結びました。しかしそれらは全て異教の国。神様を第一とすることがユダヤの力の源であったのに、それを放棄して異教の習慣を取り入れ、神様を忘れたユダヤの人々に神様からの警告が送られます。「このままではこの国は滅びてしまう!」これらを大勢の預言者たちが声を大にして叫び、神様のもとへ立ち返るよう促しますが、人々は耳を貸しません。それより経済優先、軍事力をつけてナンボ、周りと仲良くやっていくことが大切…。
しかし人間の力と知恵には限界があります。ユダヤの国はどんどん弱体化し、ついには大国バビロニアに攻め取られてしまいます。世に言う「バビロン捕囚」です。預言の通りになってしまいました。国を失い、バビロニアの捕囚となってしまったユダヤの人々は絶望のどん底に陥りました。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと
あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。(イザヤ書9:1~2)
あなた方は間違いを犯している、いずれその結果に甘んじることになる。しかしそれで終わりにはならない。必ず救いが現れる、絶望の闇の上に光が輝く日が来る、それを信じて私のもとに戻って来なさいと、預言者を通して神様はあらかじめメッセージを送ってくださっているのです。加えて救いのキーパーソンが生まれる約束も預言されます。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書9:5)
以後数百年、ユダヤの人々はこの救い主を待ち続けます。そして生まれたのがイエス・キリストです。
預言は2つの側面を持っています。一つは現実の問題に即した神様からのメッセージです。国を失ったユダヤが建て直される時が来る、そのための人物が生まれるという約束として聞くことが出来ます。この点ではこの言葉を語った預言者イザヤは「ひとりのみどりご」を具体的な誰か、とまで言及していません。後世になって、バビロニアを滅ぼしたペルシア王のことであるとか、他の人物とか、推測や研究が今なお続いていますが、わかっていません。
生きていくことには悩みはつきものです。しかしそれは私たち一人ひとりの根本的な在り方を問うてもいます。自分だけを信じて生きるか、助け守り、救ってくださる方により頼みつつ生きるか…。